”おはよう” ”おやすみ”

気持ちよく”おはよう” ”おやすみ” が言えるようになった。

今更なに言ってるの。。。と思われそうだけど言えないときもあったのだ。

人は失ってから大切なものに気づくとよく言ったもので、母の死が きっかけだったと思う。

しばらく泣くこともなかった。

ある人からは薄情と言われたり、自分でもそういう人間なのかも…とさえ思った。だけど半年ほど経ったとき、辛いことが起きたとき亡くなった母のことを思い出し泣き止めなかった。

”自分を絶対的に信じてくれた人、味方でいた人、見返りのない愛情を注ぎ続けてくれた人”、その母はもう会えないんだ。。。ということが、辛いできごとにより母の存在を強く体中に感じて悲しみや喪失感で泣き止めなかった。

しばらくそういった日が続いたが、段々とこれもよく言ったもので”記憶の中で生きている” と思えるよう母のことを思えるようなった。

そんな母は、祖父母(母の両親)の写真を飾っては毎日のお参りを欠かさない人だった。

母が亡くなったあと、その祖父母の写真を私が引き継がせてもらった。

いまは私の部屋で祖父母、親の写真を飾っている。 ほかにも離れて暮らす姉妹が揃った家族写真、大好きな息子の写真も飾っている。

母のようにお参りは出来てないけれど、毎朝”おはよう”と毎晩”おやすみ”を祖父母と親の写真に声かけている。

それと同時にどんなに喧嘩した日でも、息子が腹を立て無視されようとも、”おはよう””おやすみ”、もっと加えるなら”大好き”と言葉にしている。

どんな時でも本人は大好きだから。

腹を立て喧嘩をしたとしても、”言動”に対してだけで、子どもへの大好きは変わることはないから、そういった注意の仕方をしている。

マイナス思考と思われるかもだけど、今朝見送ったまま会えなくなること、おやすみと眠ったまま会えなくなることは何時起こるとも限らない。

最後になるなら、もっと気持ちよい態度と言葉を伝えられたんじゃないかと思ったから。

だからこそ気持ちよく挨拶したい。

毎日の始まりと終わりの習慣は祖父母と親への”おはよう” ”おやすみ”から。

そうしてるうちに相手が無視しようとも気にせず挨拶できるようなった。いつ何時会えなくなるマイナス思考からきたプラス変換だ。

少しだけ、その部分のメンタルが強化されたみたい 笑